都立産業技術研究センターデザイングループ担当者のご好意により、紹介させて頂く様になりました。
塗装屋では、これだけの試験機を揃えることは大変です。この組織、基本的には中小企業の技術振興、支援を目的に設立されています。独立法人に変わる前、デザイングループの名称は塗装工芸部と称していました。何度も、出かけ塗装工芸部の担当者と会って、技術相談した経験があります。
最近では、塗装不良に関する、映像解析をお願いした事があります。
塗装組合の行事などでお会いする機会もあります。
中小企業にとっては、有意義な存在と感じています。
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2009年1月アーカイブ
塗膜性能表のページに塗膜試験機の写真掲載しました。 2009:01:23:11:25:30
静電塗装について 2009:01:21:12:44:41
当社の静電塗装機の点検、メンテナンスをしている会社の社長さんがいるのですが、この方、この業界に携わって50年の経験を持つ経歴の持ち主です。静電塗装について幅広い知識があるのではないかと思いメンテナンスに来た日にあわせて、お話をお聞かせ下さいと申し出をしました。私としても日本ではいつ頃から使われるようになったのか知りたい面があり、この際いろいろ聞いてみようと思ったのです。
最初に説明してくれたのが、静電塗装機メーカーの変遷でした。
日本のメーカーで、社名をオサメ→ダイマック→日昇技研と変わって行った会社、この流れで他に関東ダイマックがあるそうです。創業者はオサメ ゴヘイという方だそうです。
次に中矢というメーカーでナカヤ エイゾウという方が作った会社で、今は旭サナックという会社に吸収されたと説明を受けました。他に日本工芸→トリニティ、岩田塗装機工業→アネスト岩田とあるそうです。
外資系では、アメリカはランズバーグ、ビンクス、デビルビス(この2社は後にランズバーグに吸収されたとの事)、ノードソン。
ドイツはワーグナー、など。
と立て続けに名前が出てきました。さすが、長い経験を持っているなと感心しました。
日本では、何時頃から静電塗装が行われていたのですかとの問いに、戦中頃、軍で試されていた。昭和28年頃、ミシン、ボンベ塗装に使われ始めたと説明がありました
当社静電塗装機導入にあたり購入した、「最新静電塗装技術」(渡辺 保著)と言う本がありますが、それにもミシン塗装が紹介されています。
この本に四方山話風に静電気について紹介されていました。結構興味深いので引用し記述します。かいつまんで書きます。
第一章 静電気学の発展の歴史に不思議な現象の1項に、「今から2500年前、ギリシャの哲学者(B.C.-624~548)は、町の中でうわさを耳にした。ある宝石商人が宝石を布で磨いている時、コハクがやわらかい羽毛のような軽いものを吸いつけるという不思議な現象を発見した。しかし、彼は魔法を使うといって役人から処罰をされるので恐れて、だまっているというのである。・・・・・中略・・・・」
それを聞きつけたターレスは、当時第一級の学者のため見識を以ってそれを解明し、静電気の発見者として後世に名を残すこととなる。
子供の頃、下敷きを擦り、静電気を起こして髪の毛を立てたり、細かく割いた紙などを吸着させて遊んだことを思い出します。
「時代は下がって11世紀終わり頃、有名な十字軍の戦争が始まった。十字軍に参加した兵士が例によって魔よけのために持っていた磁石がふとしたことから、ある方向を示すことを発見した。これは電気学を発展させる大きな契機となった。・・・・・中略・・・」
これが磁気コンパスとなった(器に水を入れ東西南北の盤を浮かべて磁気がはたらき方向を知る)。
2項には、町医者ギルバート(ロンドンに住み、16世紀後半の人)の実験というタイトルで、「彼の研究、今日の知識から見れば、磁気的現象と、静電気的現象のほんの初歩的のものであったが、近代物理学の創成に大きな足跡を残した。・・・・・」
この項の記述で、興味を引いたのが静電気の作用をラテン語で、Mis Elctria ギリシャ語でElectron(コハクの意)と名づけたとあり、
宝石が電気の語源とは面白い。
5項に静電塗装の着想とあって、ここには現在の静電塗装の基になる発明と記されていた。
「1764年、静電塗装にとっては、まさに記念すべき実験が行われたのである。フランスの修道院長 Abbe Nolt師は静電気遊び(当時流行っていた)を行っているうち、ふと静電気が液体を微粒化することを発見した。・・・・・・中略・・・静電霧化の実験を試みたのである。彼はこれが塗装に応用されることを考えた。・・・」
当時は摩擦車で静電気を起こしていたので召使が動かすため、長い時間は出来なかったようです。
静電塗装の発明は、18世紀と言っていいでしょう。
現在では、いろいろな霧化方法があります。
1 空気霧化方式
2 液圧霧化方式
3 回転霧化方式
4 ウルトラソニック方式(超音波を利用、しかし市場に出ず)
この方式に加え静電気をかけ更に微粒化させる。
他に純電気式があり、これは上記のものと違い、静電による霧化、吸着だけで行うもの。
現在普及しているのは1~3までのものと思います。
当社が使用している静電塗装機は1に該当し、定置式でレシプロケーター(上下動する装置)に静電ガン4丁装着し6万ボルトほど電圧を加えて、塗装を行っています。
私の経験で3に該当するものとして、ランズバーグのディスク型を見たことがあります。
回転する円盤に塗料を流し、電圧をかけ霧化する方法。他にダイマックのカップ式がありますが、方向性を出すためにシェーピングエアー(微粒化した塗料を包み込んでパターン化する)を使っていました。
説明の中で、強調された出来事で特許問題がありました。
昭和28,9年頃、ランズバーグ社 社長ハロルド ランズバーグー氏が弁護士 ジェームス アダチを介して特許使用料を日本のメーカーに対し請求する事と相成ったそうです。静電の原理、帯電させ、電荷された塗料が+、-の吸引力により被塗物に吸着する作用を使って塗装する場合使用料を出せとの要求です。使用料の算出の仕方が従来のスプレー塗装と静電塗装した時、塗料使用量の差を払えという事だった。
これは静電塗装の特長で、※塗着効率が良いために、使用量が減る効果に対し代価を払えとの要求です。
日本のメーカーは対応に苦慮しながら、抵触しないようなやり方をしていると主張しながら抵抗していたようです。その後、特許期間が終わり現在に至ったとの事。
※ 普通のスプレーガンに比べ、形状にも因りますが、50%~80%塗料が節約できます。静電塗装のセールスポイントになっていました。
戦後復興期から、昭和30年代高度成長していく中、家電、自動車業界など大量生産(マスプロ)に向かっていく過程で、普及して行き、大いにその効果を発揮していったのだと思います。
大量生産向きの塗装方法ですが、静電の作用を利用しているために塗装する際に次のような欠点もあります。
1 尖った所によけいに付きたがる
2 細かいすみに入らないから、補正塗りが必要
3 設備費が高い
4 どんな塗料でもつかえるというわけにはいかない
5 スパークによる引火の危険性がある
「最新静電塗装技術」より。
この本が書かれたのは昭和55年、現在では装置的に進歩し、当時よりは5の安全性は高くなっていると思いますが、1~4までの現象は今でも同じと思われます。
それと、大量生産には向きますが、多品種少ロットとなりますと、静電塗装は塗装専用治具(ハンガー)が必要なのでかえっていろいろな製品を塗装しようとすると無理があります。
しかし、手持ち静電ガンなどもあり吊るし方を一本化して補正塗り(タッチアップ)を併用ですることである程度、小ロットの対応は可能かと思われます。
環境問題の取組として、水系塗料で静電塗装する試みも取り組まれていると説明を受けました。
最後に静電塗装の設備を記します。
1 塗装機器
2 高圧発生器
3 塗装供給装置
4 空気供給装置
5 制御装置
6 コンベア
7 乾燥焼付炉
8 静電ブース
参考資料 「最新静電塗装技術」 著者 渡辺保 出版 理工出版社
塗装実績更新しました(1月)(バレーボール/バドミントン ポール立ての フタ ・ワク) 2009:01:14:16:41:54
「バトミントン フタ、ワク」、「バトミントン フタ、ワク」を紹介しています。
名前が示すとおり、体育館の床に据え付けられるので磨耗が強く、この製品全て、対磨耗性を強化するために3回塗りと塗装仕様を決めました。
膜厚 60μ±10ミクロン
塗膜性能表と合わせてご覧下さい。
ホームページ上でご紹介した塗装について、更に詳しく知りたい方、どうぞお電話にてご連絡下さいませ。
◆お問い合わせ先電話:049-266-5800
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◆担当:上野
ある映画を観て 2009:01:13:19:46:26
昨年12月下旬頃、面白い番組がないかとチャンネルを回しながら探していると、日本映画専門チャンネルで「愛の星座」と言う映画番組を見つけました。どのような内容か詳細データをテレビ画面に表示して確認したのですが、製作年月しかわかりませんでした。しかし、1957年とあり私の小学校時代昭和31年頃と知り当時の様子、風景が観れると思い懐かしく感じながら番組に見入ってしまいました。主役で先生役の女優さんの名前が小畠絹子だったと思います。
しかし、当時の芸名は木崎伸子として紹介されていました。
当時の子供の服装、バッラク作りの家が画面に写されていました。戦争が終わって10年位しかたっていません。物資不足、低賃金など日本の貧しい時代を思い起こしました。
ほかに映画のシーンに子供達が紙芝居を見ている所、※ニコヨンさんの弁当箱がアルミの箱、三輪トラックの走っている様子など懐かしいシーンが沢山ありました。
※1949年6月、東京都の失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への定額日給を240円と定めた。そしてこの百円2枚と十円4枚という日当から日雇い労働者のことを「ニコヨン」と呼んだ。(日本語俗語事典より)
私の記憶では、当時、三輪トラックのメーカーは「くろがね」「マツダ」だったと思います。私は千代田区飯田町に住んでいましたが、家の裏の酒屋さんが配達で三輪トラックを使っていましたから直に見て、触ったりしたことがあります。運転席と小さな補助席がありましたので二人は乗れたと記憶しています。
隣の写真屋さんが、※日野のルノーを持っていました。リアエンジンで大きさから言えば今の「軽自動車」に相当するものと思います。配達に使っていたと思いますが、一緒に乗せてくれて配達回りに同行したことがあります。
※現在大型・中型トラックを生産している日野自動車ですが戦後いち早くフランスのルノー公団と技術提携してルノー4CVの生産を開始しました。小型で小回りがよく効いたためタクシーとしても重宝され生産終了までに35,100台余りが生産されました。昭和28年4月、ノックダウン組立車発売。(カタログで見る、昭和30年代の車より)
日野ルノーの画像
この記述から思うと写真屋の親父さんは発売当時(昭和28年)に買ったのでしょう。
家一軒分くらいの値段がしたのではないでしょうか。
家には配達で使うホンダのバイクでドリーム号(E型)がありました。
ホンダドリーム号E型画像
私がそれに跨っている子供の頃の写真が残っています。何処へ出かけたかはわかりませんが、そのバイクで親父が運転し、子供一人(多分、姉か弟)を燃料タンクに乗せ、後部シートに私と大人1人の4人乗りしたことがありました。違反にならなかったのでしょうか。今では危ない行為と注意されていたでしょうが、当時は子供心に当然のように不安がらず乗れました。危ないと思うことより、乗れる楽しさが先行したのだと思います。
懐かしさのあまり、当時の思い出話が長くなりましたが、「愛の星座」と言う映画にもある種の感動を持ったので、簡単に紹介します。
当時※新東宝で、教育映画として製作されたものです。
※創立1947年3月の映画制作会社で、俳優では宇津井健、高島忠夫、菅原文太、女優では三ツ矢歌子、大空真弓、池内淳子、 それとグラマー女優として名を馳せた、前田通子、三原葉子、万里昌代などが所属していた。大ヒットした映画では「明治天皇と日露大戦争」主演アラカンこと、嵐寛十郎、高倉みゆきでした。
ストーリーはこうです。
主役の女の先生と登校できない二人の生徒との関わりを描いていました。
生徒の名は、コウイチ、タカオ。
コウイチの母親はニコヨンで生活を立てていて、いわゆる母子家庭なのでしょう。
幼い妹がいるために、母親が働きに出ているので妹の面倒を看るために、勉強は出来るのですが思うように学校へ行けません。
タカオは父親がサンドイッチマンを職業としているが、働きもせず競輪狂いで生活費をいれず、母親が内職で生計を立てています。彼はそんな境遇のためひねくれて、学校へ行かずサボるのです。
そんな彼等を授業が遅れると心配し、何とか学校へ来るよう家庭訪問して説得するのですが、家庭の事情で出来ません。それならと先生は自分の家で教えるからと母親に話して家にくるようにと勧めます。
しかし、現状、コウイチの妹を保育園に入れない限り、学校に行けません。
また、タカオは親の職業がサンドイッチマンということで友達にからかわれるのでしょう。そのためにひねくれて学校をサボるようになっているのです。
先生が授業中生徒に「職業に貴賎はない」と注意しているシーンがありました。
また、生徒が先生に「こんにちは」と帽子をとって立ち止まり挨拶するシーンがありましたが、なんとも清清しいのです。先生を敬う心が見て取れます。
私もその頃先生に対し、そんな挨拶をしていたのかと想像しました。
小学校へ寄付する人が出て来て、物語が好転していきます。
匿名で本名を隠し「一星」と名を書いて月に一度、お金を封筒に納め学校のポストに入れるのです。学校ではどんな人かと先生と生徒が探すのですが、手掛りがつかめません。
そんな折、来る日が決まっているので先生達は、夜、学校に居残って見張りをすることにしました。
見張っていると、子供がポストに入れるところを発見します。
事情を知るためすぐに子供を追って、捕まえようと走ります。子供は子供でつかまってはいけないと、古タイヤ置き場のタイヤに隠れます。しかし隠れたタイヤが倒れ見つかってしまいます。
タカオと言うことがわかり、先生は「お礼」したいからと迫るのです。
子供は名前を明かすなと言われているのですが、困惑しながらも寄付している人を教えるのです。名が「亀吉」じいさんと知り会いに行き、先生はお礼を言います。じいさんはニコヨンをしているのですが、孫の墓を作るためにと蓄えていたお金を、孫の命日に寄付をしていたのです。亀吉じいさんは「一番星の周りの星となって一緒にいるから、孫も寂しくないでしょう」と言い、墓を作るよりも貧しい人たちに役立てた方が孫も喜ぶでしょうと話すのです。
その善意が知ることとなり、他の人たちからも寄付が来るようになります。その集まったお金で学校は貧しい生徒のために使うことを決めます。
コウイチはそのお陰で、妹を保育園へ預けることが出来て、学校へ行けるようになります。
その頃、学校では、水泳教室を千葉の海で行うから、費用200円を添えて申し込むようにと先生から話が出ます。200円と言う金額はニコヨンの日給に相当します。
※補足 昭和33年頃で、銭湯の大人料金が16円、コーヒー1杯が50円の時代
テレビの値段は約6万円(同年の公務員初任給、高卒5400円)
水泳教室当日、校長先生が生徒に向かって言います。「寄付が多く集り、学校はお金持ちになりました。そのお金を使って水泳教室の費用に充てます」と話すのです。これで貧しい生徒もみんなと一緒に参加出来る様になるのです。
タカオも先生の働きかけとある出来事から素直さを取り戻し学校に行くようになります。
ある出来事とは、父親が使いの帰りのタカオを騙して、母親が内職で稼いだお金を取り上げてしまいます。家に帰り母親に会って騙されたと気付くのです。
すぐに、取り返そうと父親を追って走ります。行き先は競輪狂いの親ですから見当が付きます。追っていくシーンでは、橋を渡り、仲見世と思われる風景が出てきます。それを過ぎて、場外券売り場にたどり着きますが見つけられません。
その夜、父親は酔っ払って帰ってきます。水道の蛇口に口を当て飲んでいる所をタカオが見つけ怒りのあまり押し倒します。その光景を先生が目撃します。
酔っ払って立ち去る父親を見ながら先生は慰めるのです。きっと立ち直ってくれると。この映画時間にして1時間程度でしたが、テーマは一貫して相互扶助の「心」と感じました。
主人公の女の先生と、小学校時代の女の先生とがダブって思い出されました。この映画の先生同様、面倒見がよいのです。今でも当時を思うと心が温かくなります。
子供の頃を思い出すと、当時の大人たちは映画同様、そのような精神を持っていたように思います。
親父も親戚を援助するために、職が見つかるまでの期間、家を探す間はと家に泊めて居候させていた事があります。
親父は、戦前叔父が経営する塗装工場に勤めていましたが、戦災で工場が焼けて戦後は勤め先を失い、失業状態でした。
24歳で妻、子供を二人抱え養うためにどうすればと不安になっていましたが、ノートの行商をはじめ、稼ぐようになりその稼ぎで店を起こし文房具屋を始めます。昭和22年の頃です。
モノがない時代だったのでよく売れたと話していました。早稲田にある知り合いの印刷所からノートを仕入れ、リヤカーに積んで大宮辺りまで売り歩いたそうです。妹にあたる叔母も思い出話で話してくれたことがあります。リヤカーを押すのに重くて辛い思いをしたそうです。
事業的には親父は※喜界島から上京して店を持てるくらいなったので成功した部類に入るのでしょう。曲がりなりにも経済的に面倒がみられる余裕が多少はあり、親戚も親父を頼って上京してきたのでしょう。
※喜界島
当時、奄美大島は※アメリカ領土でした。
※ 敗戦後アメリカに占領されアメリカの領土となっていました。昭和28年に日本復帰する。沖縄の日本復帰は昭和47年。
ですから昭和28年以前、上京するためには密航するのです。小さい漁船の船底に身を隠し、鹿児島に向かったと先生だった叔母(親父の弟嫁)は自費出版した短歌歌集「浜木綿」のはしがきに書いてあります。それぐらい大変な思いをしても、上京することで道が開けると信念できたからこそ危険を感じても小さな船に乗り込めたのでしょう。
昭和40年に両親のふるさと喜界島に帰ったことがありますが、当時乗船した船が1500トンの船ですがかなり揺れました。さぞ揺れたことでしょう。生きるたくましさを感じます。
母親の兄、私から見れば伯父と叔母は親父の家で結婚式を挙げました。六畳一間でしたが、親戚一同が写っている結婚式の写真が残っています。
まだ、家長制度が残っていて、親戚が助け合うのは当たり前だったのでしょう。
我が家は両親が生きている頃は親戚付き合いも盆、正月と頻繁に行っていました。特に懐かしく思い出されるのは親父の叔父さんの家へ正月に行くことでした。
おいしいお料理が出て、お年玉が高額だったのです。百円札で2、3枚ぐらいもらえたと記憶しています。その頃、50円くらいが相場だったと思います。
最近景気後退を受けて、派遣切り、期間従業員解雇とマスコミで報道しています。住む場所がない人たちが居る事を報道しています。
私の経験からみてその人達に頼っていく親戚があれば、一時的に身を寄せ夜露を凌いで職探しができると思うのですが、戦後、核家族化して親戚付き合いも薄くなり、それを助ける親戚もなくなっているのでしょうか。
私も同じような経験をしました。昭和30年頃、ある事情で親父は文房具屋を閉めます。その時住む場所がなくなったのですが、母親の従妹に当たる家に身を寄せ、その間親達は家探し、職探しをしていました。
子供の頃とは大きく社会が変化して、相互扶助の心も薄れてきたのでしょうか。
この日本、何か大切なものを見失ってはいないでしょうか。
最近メディアなど、「昭和」を懐かしむような、報道があります。
貧しかったけれど、明るい未来を信じられ、心豊かな時代と報じるのは、その所為なのではないでしょうか。
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